Alle Menschen müssen sterben.

◆先日、母方の祖父が他界しました。一昨日のお通夜と昨日の告別式に行ってきました。

◆祖父は私が小学生の頃(17年前)に脳梗塞で倒れ、それからずっと入院し、ここ数年は特別擁護ホームと病院とを行ったり来たりの生活でした。今年に入ってからは何度も心筋梗塞や多臓器不全によって危機的状況に陥りましたが、驚異的な体力で今月まで生き延びていたのです。全身をいろいろな管や機器で繋がれ、それでも唯一動く左手で苦しげに何かを訴える様を見てきたので、死を悲しむ気持ちよりも、「ああ、これでもう苦しまずに済むんだね」といった、何かしらホッとするような心境が先に立ってしまい、何とも複雑です。

◆お通夜や式は故人に特にゆかりのある10数人に厳選して行われたので、大人数が苦手な私としては正直気持ちは楽でした。が、お通夜では交代で不寝番をするはずが、0時をまわってから夜明けまでほとんど私ともう一人で晩をする羽目に。こういうときに損なことを他人に押し付けるのが上手いかどうかが顕著に現れますね。

◆んで、そのもう一人というのが、今回出席した中で最高齢の85歳(故人の兄、つまり大叔父)。まさかそんな方に不寝番を押し付けて寝るわけにも行かず、半ば意地で起きていたんですが。

◆またそのじいさんが元気なんですよ。1943年に召集されて機銃担当の歩兵として中支に行っていたらしいんですが、その当時の話がもう、ものすごいんですよ。で、長いので畳みます。


◆門司から玄界灘を5日揺られて上海に上陸し、そこからほとんど徒歩で南京を経て重慶まで赴き、そこで終戦を迎えたそうです。そして中共のもとで1年間、上海で捕虜として強制労働に従事させられて後に復員したんだとか。

◆徒歩での行軍がひどい有様で、最大で一日60km歩かされたとか、体力がなくなり歩けなくなった兵士(都会出身がほとんどだったとか)が次々自殺していったとか。補給が追いつかず、食料もなく服や装備がぼろぼろになってゆき、(中○人を)殺してでも奪うしかなかったとか、池に手榴弾を投げ込んで、爆発の衝撃で浮かんできた魚をつかまえて食べたとか。気に食わなかったり使えない将校は後ろからの鉛弾で死んでいったとか、他の親戚がいる前では決してしなかった類の話がポンポン出てきました。ホントかどうかは確かめようがありませんが。大叔父が言うには「賛否も含めて、わしの話にうなずくかどうかは自分で決めなさい」と。

◆結局、その大叔父が所属していた部隊員千七百余名(千五百余名だったかも?)のうち、戦後日本の土を踏んだのは16名だったそうです。そりゃあ90手前でピンピンしていてあたりまえですよ。なぜ日本の年寄りはあんなに元気でがめついのかと以前から不思議だったのですが、これでようやく合点がゆきましたよ。弱いのは生き残れなかっただけなんです。生き延びたのは屈強な人間と、小ずるく立ち回った汚い連中だけだったわけで。

◆そんな大叔父は死んだ祖父にも似て、自己顕示欲の強い頑固な聞かず屋で江戸っ子的気短さを持った人物なんだそうで、親戚の間でも割りと煙たがられています。でも、上記のような話を聞くと、あのキツイ性向や押しの強さがあってこそ生き残ってきたんだろうなと思うのです。極限状態を普通の神経の持ち主が生き延びられるはずもなく、共感能力の高さややさしさが表面上重視される現代においては彼は不適応者のレッテルを貼られてしまうんだろうなあ、と思わずにいられません。現実には競争社会でそんなものはほとんど必要とされないんですが、戦場よりは余裕があるぶん表面上のやさしさは装わないといけないんですよね。

◆こんな話を聞いて「僕も負けるわけにはいかん」などと思うあたりが私の浅はかなところなんですが、なんとか式も全て乗り切ることが出来ました。



◆祖父の葬式の話のはずがほとんど大叔父の話しか書けませんです。祖父は死にましたが、生きていたときにも増して私に良いものを、生きるうえで重要な何かを残してくれたような気がします。

◆おじいちゃん、ありがとう。ずっと苦しかったもんね。もしあの世があったら、倒れてから飲めなかったウィスキイと両切りのピースを楽しんでください。

◆ちなみに母方の家系で酒が強かったのは曾祖父と祖父と、私だけでした。ひどい隔世遺伝。祖父と酒を酌み交わしたのは私が小学生のときだけですが、それでもまったく酌み交わせなかったよりは良い思い出になったような気もします。