彼/彼女を恋人にしたのは誰か

ごはんおいしかった


■空気もすっかり秋めいて、京都の山もようやく色づいてまいりました。来週末、相方と嵐山のほうに出かけるのが非常に楽しみです。


■昨日、旧来の友人が結婚するとのことで、その結婚式(2次会)に招待してくれたので、のこのこと行って来ました。大変にすばらしい会で、中には10年ぶりに再開した部活の同期もいたりして、変わった、変わってない、等々盛り上がった次第。

■しかし、ここで書きたいのは、そうした会の仔細ではなく、そこから導出されたある種の理論なのです。


どうもさんのブログで、10億円を現金で南足柄市に寄付という記事が紹介されていました。 そんならどうもさんとこのコメント欄に書けばよいではないかとも思ったのですが、あまりに空気を読めていない屁理屈コメントになってしまうので、こちらで思ったことを書くという偏屈です。大事なのは村の平和です。

■現金で10億円なんて見たことも匂いをかいだこともないのですが、その1パーセントでも良いからオラにも分けてくれ、と思った方は私だけではないと思います。そして、とりわけ注目されているのが、横溝さんが寄付したのが夫(故人)とともに稼いだお金である、という点です。先祖代々資産家であった、とか、親の資産を受け継いだ分け前、といったものでないところが特筆されているように思います。

■しかし、稼いだのは本当に、横溝さん夫婦なのでしょうか? これでは言葉が足りませんね。本当に、横溝さんご夫婦のみの力で、10億の寄付ができるほどの資産を築きあげられたのでしょうか。 
 

■もちろん、横溝さんご夫婦は宝くじを買うことに血道をあげていたわけでもなければ、ただごろごろしている間に突然資産家になったわけでもないでしょう。血のにじむような努力を続けた結果だったのでしょうし、資産を手にする過程で様々なものを失っても来たでしょう。ただ、横溝さんは、自身のそういった成功が、必ずしも自分の力だけで成しえたものではない、と気づいているからこそ、努力の果てに手にしたものの一部であっても、ある意味気前よく、ポンと寄付できたのではないか、そう思えるのです。*1

 
■記事によれば、以前にも障害者福祉施設の建設等にも尽力してきたとあります。あまりに好意的な解釈かもしれませんが、横溝さんは、自身が現代の社会経済体制に合致する形で「お金儲け」をすることができる、そういう才覚をたまたま手にしたおかげで、努力を実らせることができたのだと、そう考えているのではないかと思ったのです。

 しかもそういう才覚があったとしても、経済の動向や、自身の商売相手の動向しだいで、才覚を生かせたかどうかも判らない。まして、才覚があったとしても、それを生かすことが許されない政治体制下に生まれていたら、もし生まれつき身体や精神がそういった経済活動に耐えうるものでなかったとしたら、果たして結果はどうであったのか。自分の力で手にしたものだと通常考えがちな状況も、実際のところ、多くの要因が重なり合っていて、たまたまそうなったという、ややもすると運命論的な解釈すら成り立ってしまうのです。

 
■例えばビンゴゲームで、どの数字が印字されたカードを手にするかは、あるところまで自分で選択できます。しかしながらどの数字が読み上げられるか、また、ビンゴ達成の後にどの商品が自分に振り分けられるかは通常、不確定です。人生=ビンゴだとは決して言いませんが、多くの選択に関して、それが後々どう自分の人生に影響を及ぼしてくるのかという結果自体までは選び取れません。さらにいうならば、ある特定の事態に直面したときに、どの選択肢を選択するかと言う決断は、たいていの場合、(過去の経験が大きく影響してくる、と言う点で)他律的な要素を多分に含みます。例えば道を歩いていて、犬に出くわしたとします。犬好きの人ならそのまま進むでしょうかが、過去に犬にかまれた経験がある人ならば、極力、迂回するでしょう。犬好きの人でさえ、犬が好きになるように生まれてきたわけではなく、生育の過程で「犬が好きな人」になっていった結果に過ぎません。*2 こういうことを、J.ラカンは「欲望とは他者の欲望を欲望することである」と発見しました。「欲望せよ」と命じるのは、常に第三者、彼の言う「大文字の他者」であると。まあラカンなんて、私の脳みそじゃ到底読みきれるものじゃあありませんし、人にも勧めません。


■私が相方のことを好きになったのは、私が努力して彼女のことを無理やり「好き」になったわけではありませんし、私が彼女のことを「好きである」と一方的に宣言したから既成事実としてそうなったわけでもありません。私が何かのはずみでこの世に生まれてきて、ここまで育ってくる間のさまざまな経験が生成した私の「選好/嗜好」に、彼女のパターンの多くが合致し、彼女のほうでもそれが同様に合致した結果、ある意味奇跡的に「恋人」になってしまったわけです。私が彼女を「恋人」にした(仕立て上げた)のでもなければ、彼女のほうも同じ理屈で、そうではないのです。自分ではついに選び取ることができなかった様々な物事の結果を背負っていく過程で、出会うべくして出会い、そうなった、としか言いようのない事態、それが恋だったりするのかなあ、と。そう思うわけです。


■「おいおい、わざわざノロケのためにこんな長い文を書いたのかよ」と思われる方も居られるでしょう。すみません。昨日の結婚式で、結婚した二人の過去を思い出し、余興のビンゴゲームを楽しみ(土鍋セットを頂きました)、上記の記事を読んだときに、何かの流れがひとつになる感触があったので、つい長い文を書いてしまったのです。

■昨日結婚式を挙げた二人は、ともに高校時代の部活の仲間でした。とりわけ新婦とは小学校から高校までずっと学校が同じであったので、不思議な気持ちで眺めた式だったのです。私の頭の中では、まだ二人とも高校生のままなんですよね。10年て早いわねえ。私の頭髪も、そりゃあ老け込もうってもんです。

*1:ひょっとしたら、何がしかの節税行為だったのかもしれません。それでも、こうやって衆目にさらされれば、ゆすりたかりの類もくるでしょうし、ある種の「有名税」を支払う羽目になるので、それを覚悟の上での寄付行為には、ある意味尊敬もします。まあ、ただの自己顕示だったりするのかもしれませんがね。批判じゃないですよ、ええ。

*2:「『犬が好きな人』になりたい」と思って無理やりそうなった人がいるかもしれませんが。それはそれで、なぜそう思うようになったか、なぜそこまでしなくてはならない状況になったのか、等々、他律的要素は多分にあります。突き詰めればきりがないですね。