遊びは本質

仕事人


■論文、なかなか20%台まで届きません。ごとうです。ちくしょう。完成させたら絶対に新しい懐中電灯を買ってやる。

■こういうときに読む、論文とは全然関係のない本って、面白すぎて困ります。真保裕一『奪取』を読むのがここ数日の楽しみですが何か。

■結局、私にとっては人生の本質的部分って、遊びなわけですよ。どこかで読んだブログに「仕事は、薬みたいなものだと思っている。無しで済ませられればそれに越したことはないけれど、必要だからやっている」とか何とか言う言葉がありまして、私には非常に訴えかけるものがありました。一方で「仕事を通じて自己実現する」という人も大勢いて、世の中の大抵のことはそういう人たちが動かしているのは紛れもない事実なんですが、どうも私には魅力が感じられない。人間が小さいんでしょう。


■ハンナ・アレントは、人間の行為形態を「労働(labor)」「仕事(work)」「活動(action)」に分類し、労働を、常に消費を目的とするものを生産する行為であるが故に、空虚さを逃れ得ないと指摘しました。作者の生命を超えたものを残す(例えば芸術作品を造るような)「仕事」や、他者の存在を不可欠とし、言語活動を伴う(例えば政治のような)「活動」という行為が、人間本来の欲求従属の行為であると*1。まあ、その辺から、近代以降、労働が不当に高く評価され、物質主義が人々の娯楽までをも画一化したとか、そこから政治への無関心に至ったり、実利優先の考えが横行したなどとアレントはぐちぐち言うんですが。

■一般に言う仕事が私の中ではアレント的「労働」の枠を超えられないのに対して、わりあい多くの人が、仕事をアレント的「仕事」や「活動」の域にまで高めている、のかどうか定かではありません。私が「遊びが本質」というのは、労働なり仕事なりをする目的が「遊びのため」であったり、この目標を達成したら「自分へのご褒美(笑)」として物質的快楽を享受するんだ、といった、いわばインセンティブとしての遊びが重要なんだ、ということなのです。

■日本では(アメリカや西欧と違い)、大学院以上の学歴はかえって就職を困難にします(一部理系を除く)。院での研究が生かせる職業についた人は、きっとアレント的仕事での自己肯定が可能になるんだろうなあ、と思います(きっと厳しい道なんでしょうけれど)。私の場合は生きる動機付けが研究でもなんでもないので(まして職業的に使用可能な研究などしていないので)、きっと院とは関係のない職につき、うだうだ仕事の文句を言いながら、余暇だけはきらきらした目で遊ぶ、そんな人生を目指してしまうんだろうなと思います。勿体無いのかもしれませんが。


■写真は我が家で製作された極小の餃子と柿です。これこそ仕事だと思った次第。うちの相方は器用なもんです。

*1:寺島俊穂『政治哲学の復権ミネルヴァ書房 1998 pp.31-32