人生の目標は「成長」かつ「整腸」

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■久しぶりに更新します、腸内環境絶不調のごとうですこんばんわ。最近、ますます鳥の物まねに磨きがかかってきた気がします。今日はカラスとコミュニケーションをとってみると、こちらの呼びかけにキョロキョロと仲間を探していました。発話者が私だと認識してくれるまであと一歩です。

■さて、今日は相方の通院にのこのこ付き添い、帰りはショッピングなどしつつ連れ回して帰りました。そんな病院で思い出した、私の昔受けたカウンセリングのお話。


■というか、私はかれこれ半年ほどかかりつけの精神科(アルコール専門医)に行っておりませんで。アル中業界ではパッタリ通院が途絶えたらほぼ確実に再飲酒のサインとなってしまうので、行って元気ですと伝えねばならないのですが、なんせもう日常の生活パターンから病院が抜け落ちてしまっているので、行かなきゃいけないということ自体なかなか思い出せなくなってしまっています。悪循環。
 

■おっとっと、カウンセリングの話でした。カウンセリングと言うものは基本的に、カウンセラーのが知識を授ける場ではなく、カウンセリングを受ける側が「自分で気づく」ことを促す場として定義されているようです。が、そもそも自分で気づけるくらいならカウンセリングなど行く必要はそんなにないわけで、なかなか気づくことはむずかしいのです。そこで、気づけないときにカウンセラがヒントをくれたりする場面も多々ありました。
 

■その種のヒントのいくつかは今でも心において使い続けておりまして、そのひとつが、「私の発言をどう受け取るかは、受け手側の問題/領分だ」というものです。だからどうした、と言う人が多分この世の半分以上を占めていると思いますが、少なくとも私はそうでなかったのです。

■自分が何かを伝えようとするとき、私たちはその言葉を、100%自分の伝えたいとおりに受け取って欲しいと無意識に思います(時には強く願います)。けれど、実際はなかなかうまくいかない。こちらの言葉が足らなかったり、単語の意味の解釈が人によってずれていたり、原因不明の誤解、すれ違いがおこったりもします。しかし、先のカウンセラのヒントが含む内容は、そういった言語学的な話ではありません。

 
■たとえば、自分の願うとおりに伝わらないことへのある種の恐れから、時折コミュニケーションそのものを避けたり、恐れたりする場合があります。その原因として、コミュニケーションの相手(話の受け手)の責任範囲と、自分の発言の責任範囲をごっちゃにする、ある意味共依存的な自他未分化の人間関係観があるのではないか、と考えることができます。大事なことは、自分がその時点で最良と思える方法で伝えたいことを伝えようとすること。それを相手がどう受け取るかまでコントロールしようとしないことなのです。先のヒントの意味することはそういうことではないかと、私は解釈したのです。
 

■その私の解釈が誤解でもかまいません。それによる気づきが私の症候を減じたわけですし、それこそがカウンセリングの目的だったからです。とはいえ、今この文章を書いているときでさえ、どうすれば最も誤解なく私の伝えたいとおりに書くことができるのかを気にしながら書いているわけで、先のカウンセリングがわたしをどう変えたのか、実際のところ外見的には区別できないでしょう。良くも悪くもそんなもんです。要は気が楽になれば良いんですよ。
 

■それでも、ややこしい話をするときは大抵、上記のようなことをチラリと考え、「ああ、私の言葉を誤解する権利を剥奪してはいかんよなあ」などと考えます。が、次の瞬間には相手の言葉をさえぎりながら「いやいや、私の言いたいことはそういうことじゃなくてですね・・・・・・」などと言って、誤解の権利も解釈の自由も剥奪します。その程度のケチな人間です。