悲しいワルツ

・結局医者が長引いてしまい、AAは遅刻。でも参加した。新しく加わった人もいたけれど、また飲酒をはじめてしまい(ギョーカイ用語で"スリップ"という)、1から出直しという人もいた。

 「飲むのがアル中なんだから。」そうはいっても、やはり失敗を認めてしまうような空気があってはマズイし、かといって「言いっぱなし、聞きっぱなし」が大原則のAAで他人の失敗をとやかく言うことも出来ない。最初の断酒が一生続く、という例はまずないそうで、大抵1度や2度のスリップは経験するものらしい。

 しかしなあ。そういうスリップの例をAAで幾度も目にし、毎回のように聞くにつけ、言い知れぬやりきれなさを感じてしまう。


 他人の酒のやめ方をとやかく言うことは良くないことだけれど、それでも矢張り何かが根本的に違うのではないか、そう思わずにいられない。以前、「二つの否認」ということを書いたけれども、アル中になるまで飲まなければ生きて行けなかったその自分自身を変えて行くことを忘れて、ただ酒を目の敵にしてしまう。酒を断つことだけを考えて、酒さえやめればそれで万事解決だと思ってしまう。

 もちろん最初の一年くらいはそれでいいのだろう。けれど、3年、5年、そして一生やめ続けるのに、ただガマン、ガマンというだけではおそらく続くまい。いつか、どこかでパンクする。体ではなく、心が酒を欲しがっているのだから。生きるために酒を必要とした自分自身の心の問題と真正面から向き合って、生き方そのものを変えなければ、本当の断酒にはならないのではないか。逆に、生き方を、心を、酒に頼る必要のないものに出来れば、自然と酒は遠ざかり、自ずと酒を飲む必要もなくなり、やがては自分の人生に対して責任を果たす為には、もう酒は飲めない、というステージに上がるのではあるまいか。

 上述のようなことは、徒な精神論だろうか。あるいは、ただの綺麗ごとなのだろうか。それでも私は、これこそがアルコール依存症の治療の根本的な部分に関わる問題だと思うし、少なくとも一瞥するだけの価値はあると思う。