自己憐憫

◆当たり前の話だけれど、「謙虚」の気持ちと「自己嫌悪」は違う。じゃあ何が違うのか、と考えたときに、「自己嫌悪」というのは「自己憐憫」の気持の裏返しなんじゃないかな、という仮定に辿り着いた。

◆「本当はこんな自分になりたい」とか、「こんな自分でいたい」という気持が前提にあって、それが現実と食い違ったとき、あるいはそういった理想のような自己像を実現することが阻まれたときに、「本当の自分はこんなじゃないのにどうしてこんな風になってしまうんだろう」という気持を内包した「自己嫌悪」の感情にとらわれるのではないか。理想の自己像があって、「こう生きたい」と思っているのにそう生きられない。だから、「理想の実現出来ないこんな人生は生きるに値しない」と思ってしまう。「本当の自分」という夢が実現しないから、現実が「本当」でないかりそめのもののように思えてしまう。価値の無い物に思えてくる。

◆そこには、「理想化した自分」になることが出来ない自分を憐れむ「自己憐憫」の気持と、「自分の思う通りにならない人生は生きる価値がない人生だ」という白黒2分法的な単純化された(極端な)価値判断に基づくエゴイスティックな感情があるように思う。

◆そんな気持に陥った時、心の隙間に入り込むようにやってくるのが、「アルコール」であったり、あるいは他の依存性を持ったものなのではないか。アルコールに酔い痴れているときにもたらされる万能感と快感が、「酒を飲んでいるときの私こそが、本当の私だ」と思わせたりする。あるいは、「生きる価値のない人生」が、酒を飲んでいる間だけはそうでないように思えてくる。またときには、「生きる価値のない人生」を生きることを宿命づけられた自分を「悲劇の主人公」のように見たてて自己憐憫の気持ちに酔い痴れたりもする。


自己愛人格障害なるものがある。ここまで病的ではなくても、自分が「偉大な何者か」であるかのように心のどこかで期待しつづけたり、まだ見ぬ才能があるのではないかとその発露を待ちつづけたりする。

◆それは根拠のない自信へと繋がって、尊大な態度をとらせたり、自信過剰な行動をさせたりする。あるいはその才能がいつまでも発露しないことに絶望し、自己憐憫の気持に酔い痴れたり、破滅願望を抱くことで「悲劇の主人公」演じる自分を夢想し、あるいは酔い痴れる。

◆破滅願望は自己憐憫の裏返しの極致であり、何一つ夢を実現出来ない人間に残された、最後の「実現可能性を留保された」夢だ。破滅願望を抱きつづけ、酒を飲みながら死ぬことばかり考えていた私が言うのだから間違いない。全てのアル中がそうだとは言わないが、一部には必ず同じタイプのパーソナリティを持った者が居る筈だ。


◆それは、逆説的に、「自己愛」あるいは「自己憐憫」の感情に気付き、それを捨て去り「謙虚」な気持に至ることで、あらゆる依存の苦しみから抜け出すことが出来るかもしれないという希望をもたらしてくれる。

◆自分が「何者か」であることを期待するのではなく、「何者でもない」自分を受け入れること。在りのままの自分を見つめ、受け入れる。理想化した自分への盲信を捨て去ること。これが出来れば、きっともう少し生きることの苦しさを減らすことが出来るのではあるまいか。