「私」という変化の基体 

◆私はここ何年も、ある人物を目標としてきた。その人物にならんとして生きてきたのだ。

◆だがその人物は、現実の私自身とは大きくかけ離れていた。いや、かけ離れているが故にその人物に憧れ、かくあらんと欲したのだ。しかし、その現実と理想の乖離は私を苦しめ、現実の自分を取るに足りないものとして卑しめ、傷つけるまでに至った。

◆今でも私はその理想を追いつづけている。けれど、現実の、弱く、傷つきやすい私を認め、それを私自身として生活するべきなのか、理想の人物となるべく益のない努力を試み続けるべきなのか、次第に自問するようになった。

◆一体どうすれば良いのだろう。このようなことを一体誰に相談すれば良いのだろうか。友人?医師?だが、如何に私の内面を知っていようと、如何なる権威を持った人物であろうと、「正解」を導き出すことが出来るのであろうか。

◆私の葛藤。どちらの道を選んだとしても、それが私にとって、あるいは私を取り巻く世界にとってどちらが「正解」なのか、それは後になってみなければ判らない。私の葛藤の成否を判断できるのはただ歴史のみなのだろう。

◆それでは私のこの葛藤は無益なことなのだろうか。誰が私の葛藤に終止符を打つべきなのか。私の葛藤それ自体をどう葛藤すべきかという「メタ葛藤」的状況が起こり、そしてそのメタ葛藤の成否を決するのもまた歴史なのだ、というのは議論の飛躍だろうか。