うまく考えをまとめられないけれど

 けれど、考えてしまう。「私」とは一体なんなのだろうか。アルコールの有無でものの見方考え方がガラリとかわり、薬物で気分の乱高下をコントロールできる「私」という存在。
 ある実験によると、恋愛感情をつかさどる脳内物質があり、それを人工的に投与する事で、普段全く恋愛感情を抱かない相手に対して、恋愛感情を抱かせしめることが出来るという。

 「私」が主体的に意志決定を行ったつもりでいても、そこには過去の様々な経験によって外的に形成された経験知が介在しており、しかも、其処には其の時の感情が影響を及ぼす。そして、その感情が、薬物や電気刺激といったもので簡単に左右され、しかもそれを人為的に行う事すら可能であるならば、一体、私の意志とは何なのだろうか。

 我々はしばしば、「私」という、確固たる精神的存在が存在する事が自明の事であるかのように考え、あるいはその事を意識すらせずに、決断し、自由意志によって、自らの運命を処決しているように思いこんでいる。けれども、実際にはそのような確固たる「私」など存在せず、常に外的要因によって一時もとどまる事無く移ろい変わり行くあやふやな存在が「私」であるならば、そのような曖昧な存在に自らの運命を委ねて生きて行くことは極めて危険で、恐ろしいもののように思えてはこないだろうか。

 つまり、「私」とは、上記のように移ろい変わり行く、あるいは外的要因によって操作可能な、時系列的に連続しないスピリチュアルなものを指すのではなく、そういった変化をするそれ自身、つまり変化の<基体>そのものが「私」なのだ。この微妙で、かつ決定的に異なる「私」に対する理解を経なければ、常に移ろい行く感情(こころ、と言った方がいいかもしれない)に振り回されつづけることになる。