犠牲と祈りを

 2003年2月2日(日)の日記より抜粋

■帰還予定のスペースシャトルが事故を起こした模様。高空で幾つもの破片に飛び散ってゆく物体を捕らえた映像が全世界に配信されている。本当ならば宇宙開拓史上最悪の事故となるだろう。

■同じ命であっても、テロで殺されたり、悲劇的な事故に遭遇して死んだ者の命は多くの感情論者によって悼まれ、悲しまれるが、毎日のように死亡していく、第3世界の人間や、戦乱の影で虐殺されてゆく人間や、交通事故で年間八千人も死んで居る日本人や、年間三万人も自殺している日本人や其の遺族は、見向きもされない。マスコミに視聴率目当てに取り沙汰される死のみが悼み、悲しまれる。もっと他に悼まれ悲しまれるべき死が、世界中の至るところに毎日転がっているのに。ひとの命の重さは、いや、人に限らず全ての命の価値が、同じには扱われていないのだ。


 当時の私の考えに嘘偽りはなかったはずだ。そして今でも、上記の考え方は間違ってはいないと思っている。

 不幸な天災に遭遇し、九死に一生を得るような奇跡的生還を遂げた命を、諸手を上げて称え喜び、その後の一挙手一投足を過剰なまでの熱意で報じるマスコミ。あのような奇跡の生還は、此の度の震災による艱難辛苦に耐えねばならない人々にとっては貴重な心の支え、希望の星となるだろう。

 しかしその一方で、パレスチナでは無辜の少女が政治的対立の陰で「誤射」により殺されたことや、つい先日の台風によって多大な被害を被った地域の惨禍はより少なく報じられる。しかも、意図的に。


 命に価値序列があるか、ないか。それは文化・宗教・政治体制によって考え方は違うだろうし、個々人間にも見解の相違はあるだろう。けれど、その価値判断の基準を、マスコミの報道というバイアスのかかったものにのみおもねったり、マスコミの価値基準を鵜呑みにして自己の価値基準としてしまうことだけは避けたいものだ。
 それは簡単ではないし、何より、そうすることで、自己の価値判断に責任を持たねばならなくなる。それはとても重たいことだ。