無色の世界

 ……酒を飲もう。何もかも、一時でも忘れさせて呉れるなら、酒でも阿片でもハッシュシュでも、私は即座に飲みこむ。私は昨夜の、頭のしびれるような酔い心地を物うく思い出していた。頽廃におもむく瞬間の快い戦慄を、私は貪るように欲望した。


   梅崎春生『風宴』より


 友人とカラオケをしていた時からそうだったのだが、彼と別れてより、更に強い飲酒欲求に苛まれた。アルコールに対して身悶えするほどの欲求が突き上げてくる。いっそモンダミンでも飲んでしまおうかと思うほどに。何処かに隠したまま忘れているウィスキイなどありはしないかと部屋中探しまわるが、徒労に終わる。


 実は友人と別れた後、ベンチで煙草を吸いながら、酒を飲もうかと思案した。ビールのひと缶くらいなら大丈夫だろうとも思ったし、いっそ近くのバーで浴びるように飲んで、そのまま自宅マンションの非常階段から飛び降りようかとも思った。酒を飲んでしまったら家族に合わせる顔がないので、死んで詫びるより他にないと思ったのだ。私が酒を飲む時が来たとすれば、それは恐らく人生最後の時となるだろう。

 ともあれ思案した揚句、矢張り飲むのはやめた。せめて今日一日だけでも断酒しよう。そうでなければ、酒なしの盛り上がらないカラオケに付き合って呉れた友人に申し訳が立たないではないか。今日ひとまずは断酒して、明日まだ飲みたければその時に飲めばいい。そう思ったのだ。


 帰宅途中で、ふと思い立って、マンションの最上階に上がってみる。非常階段から下を覗きこむと、遥かに下のコンクリートに向かって、死の口がポッカリと穴を空けていた。それは私をいざなうかのように、温かい色の明かりに照らされていた。それを見て何かを確認したようなある満足感を得、そのまま帰宅した。


 私の全てだった酒がなくなったせいだろう。いつもの街の、いつもと変わらぬ風景に、何故だか私だけが馴染まない。そんな気がする。全ての世界が、色褪せて見える。色彩りをなくした、無色の世界。何をしてもつまらない。何かがすっぽりと抜け落ちたような、空虚感。それでも生きて行かねばならないのだろう。だが、何の為に。
 そして今、ようやくワイパックスセルシンが効いて来たのか、飲酒欲求が僅かばかり落ち着き、代わりに眠気がでてきた。今日のところはなんとか眠ってやり過ごそう。